学文路にある『人魚のミイラ』
- 2011年11月15日(火)
- カテゴリー|徒然コラム
スタッフの浜田です。同僚の前田君が‘スポーツの秋’なら、私は‘勉強の秋’で勝負(?)、ということで、以下のところに行ってきました。
南海電鉄で高野山に向かう途中に、『学文路(かむろ)』という駅があります。
そこでは、『人魚のミイラ』という看板が見えるのですが、気になっている方も多いと思い、私も見てまいりました。(気になっていたのは私だけ?)
本日、早めに仕事が終わったこと、散歩にいい季節であること、そして、「3dayチケット」利用期間のため途中下車し放題であること、から、思い切ってこの駅で降りてみました。
駅員さんに聞けば、駅から10分ほど歩く山の中腹の『西光寺』というお寺で奉納されている、とのこと。
歩いて10分とは言え、坂道は運動不足の身にはきつかったです。(それも私だけ?)
周囲にはお墓も並んでおり、いかにも『村のお寺』という感じです。
ここに『人魚のミイラ』が奉納されています。
ところが、どこに置いてあるかがわかりません。
どうやらお堂の中と思えるのですが、お堂には鍵がかかって入れません。
「どうしたものか」と悩むこと約10分。
運良く、住職とおぼしき方が通りがかったことから、「ミイラを見ることはできませんか?」と声をかけると、「あ、今、鍵をあけますよ」と快い返事をいただけました。
もし今後、来訪してもお堂に鍵がかかっていたときは、お寺と併設して建てられている住職のご自宅に声をかけるとあけていただけると思います。
よく言えば年中無休、悪く言えば不定期休業のようなので、行かれる方は電話で予定を確認しておく方がよいかもしれません。(0736-32-0798・井上様)
そして、仏像の右側にある黒い箱の中に『人魚のミイラ』は奉納されています。
また、以下の額もかけられていました。
学文路苅萱堂(かむろかるかやどう)は、正式には如意珠山能満院仁徳寺(にょいしゅざんのうまんいんにんとくじ)と呼ばれる真言宗の寺院である。江戸時代に入って学文路を登山口とする不動坂が高野参詣の表参道となったことで、謡曲「苅萱」、説教節「かるかや」などで知られる千里御前(ちさとこぜん)ゆかりの地として、苅萱堂は女人禁制の高野山へ参拝が許されなかった女性を対象とした唱導(しょうどう)の場として賑わったという。
「カムロ」という地名が初めて史料に見えるのは、平安末期の文治4年(1188年)で、村名の所見は、鎌倉末期の文暦2年(1235年)である。いづれも「高野山文書」にあり、当時高野山の寺領であったことがわかるが、地名にも村名にも「禿」の字が用いられている。
天正13年(1585年)豊臣秀吉の紀州征伐の時、高野山寺領は、全て没収された。天正19年から20年にかけて、東隣りの南馬場や西隣りの九度山などは、高野山寺領として認められたが、ここはそのまま紀州藩領として引き継がれ、その頃から「學文路」と書かれるようになった。
江戸時代の学文路は、高野参詣の表口として賑わい、「紀州續風土記」には、家数179軒8才以上の人数709人とあり、「紀州國名所圖會」には、この村には旅館が多かったことやなかでも刈萱堂心にゆかりのある玉屋旅館の繁盛ぶりなどが記されている。
今も「学文路苅萱堂」を筆頭にして「物狂石」や「梅天神」など伝説を秘めた旧跡が多く、街かどにたたずむ古い道標は、往時へのロマンをかきたててくれる。
あと、以下のものも売っていました。
人魚のミイラ
和歌山県 学文路苅萱堂所蔵 橋本市指定有形民族文化財
この人魚のミイラは、滋賀県の蒲生川で千数百年年前に捕獲され、中世萱堂聖によって広められた「石童丸物語」を今に伝える絵解きとして、現在まで大切に保存されてきた。
(絵葉書より)
あと、学文路と言えば、「学校への入学の路」という言葉のイメージから、受験の“験担(げんかつ)ぎ”としても有名で、駅ではこのようなものも売っています。
『ご入学』ということで、“5(ご)”枚入り“入”場券“学”文路駅、として売られています。
高野山のお守りといっしょに持てば効果倍増?